神仏習合のはじまり
神仏習合とは、日本固有の神と大陸伝来の仏とを一体的に信仰する思想で、奈良時代に始まったとされます。宇佐は神仏習合発祥の地ともいわれますが、そのきっかけともいわれる3つの出来事を紹介します。
隼人の反乱と放生会のはじまり
8世紀の初め頃、律令制による国造りを進める大和朝廷に対して南九州にすむ隼人が起こした反乱を鎮圧するために朝廷が派遣した軍とともに八幡大神が率いる宇佐の人々も出陣して多くの隼人を討ち取りました。乱の鎮圧後に豊前海の蜷(にな)に隼人の霊がとりついて宇佐で疫病がまん延する事態となったため、弥勒寺の僧である法蓮が中心となって放生会(ほうじょうえ)を行うことで隼人の霊を鎮めました。
放生(ほうじょう)とは殺生を戒める仏教の教えに基づく儀式で、捕らえられた生き物を放ち逃がすことで徳を積むという修行方法です。放生会が始まったことで、神と仏が融合した祭事として成立しました。
放生会は宇佐神宮の祭の中でも特に重要な祭りとして位置づけられており、現在でも毎年10月に実施されています。

最古の神宮寺「弥勒寺」の建立
725年、小椋山に鎮座すると同時に八幡大神は弥勒禅院という寺院を建立せよ、という託宣を出して仏の力による守護を求めました。弥勒禅院は宇佐の日足(ひあし)に建てられましたが、738年、八幡大神の託宣により小椋山の西側に移されました。境内に移された弥勒寺は金堂・講堂・東西の三重塔などを持つ薬師寺式の伽藍(がらん)配置をもつ寺院であり、初代別当は放生会を始めた法蓮が務めました。
神社の中に作られた寺「神宮寺」といい、弥勒寺は記録上から確認できる最古の神宮寺の一つといわれています。

東大寺大仏造立への協力と神輿のはじまり
724年に即位した聖武天皇は仏教に深く帰依し、仏の力で国を守護する政策を進める中で集大成として東大寺の大仏造立に着手しました。大仏造立が難航する中、八幡大神は「全国の神を率いて協力する」という内容の託宣を出しました。
その後、八幡大神の託宣のとおり、仏像を造るための銅や表面に塗るための黄金が国内で発見され、東大寺の大仏は無事完成しました。功績が認められた八幡大神は、大仏鋳造直後の749年に大仏を拝すため行幸されます。その時に、八幡大神の依代として大神杜女(おおがの もりめ)という女性神官が紫の輿に乗って東大寺を訪れたということが『続日本紀』※に記されており、それが神輿発祥の記録となっています。
※『続日本紀』は797年に編纂された歴史書で、697年の文武天皇即位から791年の桓武天皇の治世までが記されています。
