宇佐神宮の歴史

境内地の変遷

宇佐神宮の境内15万坪あり、広大な敷地はその魅力の一つです。1300年という長い歴史の中で境内の姿は徐々に変化しており、その変遷を紹介します。

本殿と弥勒寺の造立

725年に小椋山に社殿(一之御殿)が建てられて八幡大神が鎮座した8年後の733年、その隣には比売(ひめ)大神を祀るための御殿が建立され、続いて、八幡大神の鎮座から約100年後にあたる823年に、八幡大神の母である神功皇后を祀る御殿(三之御殿)が建てられ、現在に続く3つの御殿が並ぶ形が整いました。
上宮に一之御殿、二之御殿が建てられて間もない738年、境内の西側に神宮寺である弥勒寺が建立されます。
平安時代には社寺の私領として荘園の開発や貴族からの寄進が盛んになり、宇佐宮と弥勒寺は九州一円に荘園をもつ最盛期を迎えました。その中で、弥勒寺や菱形池周辺への宝塔やお堂の建立も行われたといわれています。また、このころ宇佐宮では33年に1度、本殿を建て替える式年造営が行われていました。

室町時代の大造営

鎌倉時代になると、荘園は武士の領地として切り取られて、宇佐宮の勢力も徐々に衰えていきます。南北朝時代の動乱が終わり室町時代を迎えた15世紀初頭、豊前国(現在の福岡県~大分県北部)の守護となった大内盛見(おおうち もりはる)は神仏を深く信仰し、領国内で社寺の建立や再興に力を尽くしました。

宇佐神宮には、1424年ごろに作られた境内の古絵図「豊前国宇佐宮絵図」(国指定重要文化財)などが残されており、上宮・下宮などは現在と同様な形の社殿が描かれており、弥勒寺には金堂・講堂・東西の塔以外にも宝塔が複数あったことが描かれています。大分県立歴史博物館では、この絵図を元にした室町時代の宇佐神宮を復元したジオラマが展示されており、往時の宇佐宮の姿を想像することができます。

室町時代の宇佐宮を再現したジオラマ

江戸時代の造営

15世紀末におこった応仁の乱をきっかけに、戦国時代に突入しました。豊後国を治めた大友氏との争乱で宇佐宮とその周辺が焼き討ちをうけるなど、戦国時代末には宇佐宮の境内は荒廃していました。江戸時代の初期に豊前国の領主となった細川忠興(ただおき)は、呉橋・大鳥居・弥勒寺西大門・鐘楼等の建築だけでなく、放生会(ほうじょうえ)・御神能(ごしんのう)等の祭事の復興といったように、その復興を支援しました。

また、戦国時代には途絶えていた勅使の参向(勅祭)も江戸時代には再開されました。江戸時代には、勅祭は60年に1度行われており、勅使は3回派遣されました。勅使の派遣(1744年、1806年、1864年)に合わせて、西大門や南中楼門、本殿などの主要な建物は建て替えが行われました。国宝に指定されている現在の宇佐神宮本殿は、一之御殿が1860年、二之御殿が1859年、三之御殿が1861年に建築されており、勅祭に合わせた境内の整備が計画的に行われていたことが伺えます。

江戸時代末の上宮(蓑虫山人絵日記)

昭和の大造営

明治維新を迎え近代化を進める戦前の日本では、神道は国家の宗教として位置づけられました。そのため昭和初期の日本は、国威発揚のために全国の名だたる神社では境内地の整備や社殿の改修等の大規模工事が行われました。

宇佐神宮も例外ではなく1932年から1941年にかけて大造営が進められました。本殿をはじめとする社殿・門・鳥居・呉橋等の改修や建替え、上宮の拡張、参道全体の整備、菱形池の拡張と能舞台の建設、寄藻川にかかる神橋の新築、弥勒寺跡にあった門や神明町(現在の仲見世商店街)の撤去といった非常に大規模な工事が行われました。昭和の大造営では、神社らしい厳かな境内空間の整備が行われており、現在の境内の姿はおおむねこの時期に形成されました。

寄藻川にかかる朱塗の神橋

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