情趣が薫る
3つの城下町
名だたる武将たちが天下統一を夢見た戦国の乱世が終わり、天下泰平の時代となった江戸時代。千年ロマンエリアには、個性が光る3つの城下町があった。政治・経済・文化の中心となった城下町は、それぞれの場所ならではの暮らしや営みを感じることができる。
国東半島の南部に位置する杵築の城下町。代々、木付氏が治めていた「木付」という地名の藩だったが、幕府の役人が間違えたことから、「杵築」という字が使われるようになったというエピソードがある。
杵築の城下町は、守江湾が眼下に広がる杵築城を中心に南北の高台に武家屋敷が連なり、その谷間に商人の町が存在するという、他にはない独特なつくりになっている。このような立体的な形状を結ぶのが、大小約20の坂道である。質素な中にも格式と威厳が漂う武家屋敷、町屋の家並み、白壁など、印象に残る景観ばかり。代表的な坂として、酢屋の坂や塩屋の坂があるが、それぞれの坂道にストーリーがあるので、町の人に尋ねてみるのもロマンがあっておもしろい。
杵築では、着物姿で城下町を散策すると、公共観光文化施設や食事処などでたくさんの特典が受けられる。300着以上そろう着物レンタルもあるので、気軽に着物体験が楽しめる。小粋な着物姿でそぞろ歩こう。
名軍師はここからどんな夢を見ていたのだろうか―。凛とした姿で中津川の畔に佇む中津城は、豊臣秀吉の命により中津に入封した黒田官兵衛が築いた城。河口に築城したため、水門から海水が入り、堀の水かさが潮の満ち引きにより上下することから、高松城、今治城と並んで日本三大水城の一つに数えられている。また、名工の技によりつくられた、九州最古を誇る近世城郭の石垣も見どころの一つだ。
県境の山国川右岸に位置した中津の城下町は、中津城を中心に、広範囲におよぶ。14の町屋の中でも特に長い距離の街並みが続く「諸町」は、もろもろの職人が多く暮らしたことから由来する。そこでは、当時の藩の財政を支えた和傘や藍染めといった、日本の伝統を今に継ぐ技術が育まれ、人々の暮らしを支えた。しかし、時代の流れとともにあらゆるものが効率化され、利便性を重要視するようになり、風前の灯火となってしまった。そんな中、伝統技術を風化させることなく、中津の宝として受け継がれるべきだと立ち上がった職人がいる。和傘づくりや藍染めは今でも気軽に体験でき、その歴史を体感することができる。この城下町で手づくりの温かみにふれることで、またこの伝統の良さに気づき、思いが引き継がれていくことを切に願う。
国東半島の付け根にある小さな城下町、日出町には、かつては別府湾からの日の出を見守るかのように城が立っていた。今は石垣が残るのみ、もうその姿はない。
豊臣秀吉の正室、おねの甥である木下延俊が三万石の大名として姫路から日出へ入り、1601年に日出城初代藩主となった。日出城は、小藩の城とは思えないほどの規模と高い完成度を誇るバランスのとれた美しい城だったと言われている。
日出城址周辺は、海を眺めながら石垣を伝って歩く散策路になっている。春は桜がほころび、青い海とのコントラストが美しく、風光明媚な景色がまぶしく目に映る。
また日出町からは偉人も多く輩出。大分県で唯一現存する藩校「致道館」があり、文教の地だったことがうかがえる。
日出城下の海底には江戸時代に徳川将軍家に献上されていた“殿様魚”が育まれている。海水と真水が混じる海域で獲れるマコガレイ「城下かれい」である。美食家、木下謙次郎の著書でも天下の美味と絶賛されたお墨付き。
殿様気分で贅沢な時間を味わうなら、城下町の中でもひときわ目を引く近代和風建築の料亭「的山荘」へ。かつての城主も眺めたであろう別府湾を一望する景色を眺めながら、城下かれいに舌鼓を打てば、この城下町の素晴らしさに改めて魅了されることだろう。
260年続いた武士の時代が終わり、日本はめまぐるしい時代の変化を遂げることになる。別府湾の向こうに見える湯けむりの下にも、新たな文化の幕開けが待っていた。